◆「幸福論」(「不幸論」)◆不幸になる方法論は無意味です。 成功したいのに失敗する方法、好きな人に愛されたいのに憎まれる方法、ギターを下手に弾く方法、なども意味がありません。 なぜかというと、これらは放っておいても自然にそうなってしまう事だからです。 不幸になるのは、それほど簡単です。 不幸になるには大した能力は要りません。 (この場合、能力がないから不幸になるのかも知れませんが…) そのためか、人間は不幸になるのが得意です。 人間は様々な点で動物に敵わないが、不幸になる事にかけては動物よりも遥かに優れています。 不幸のタネはどこにでも転がっています。 不幸の可能性は無限です。 それらをすべて免れていることが出来たら、それだけでもう奇跡と言っていいほどの幸福です。 それ以上のことを望んだら、バチがあたって不幸になってしまうでしょう。 次に挙げる例は不幸のタネになり得るものばかりです。 これを見れば不幸のタネの特徴と多様性が明らかになるでしょう。 ・自分より幸福な人がいる ・自分より不幸な人がいる ・自分の顔がブサイクだ ・恋人の顔がブサイクだ ・背が低すぎる ・背が高すぎる ・太っている ・痩せている ・バストが細い ・ウエストが太い ・恋人が普通の人だ ・恋人が普通の人ではない ・愛する人がいない ・愛する人が多い ・すべてが移ろい、永続的なものが何一つない ・新しいことが起こらず、同じ事の繰り返しだ 以上に挙げた以外にも不幸のタネはいくらでもあるうえに、同じ事柄からも双方向の悩みが発生することが分かる。 このように、とくに何もしていなくても、また、事実がどうなっていても不幸になってしまうのだから、どこまでも不幸になることが出来ます。 不幸になり放題(!?)です。 これらの例をみても気が付くことは、自分の力の及ばない事実が不幸のタネになるということです。 実際、例えば試験に合格したければ勉強する以外になく、悩みの入り込む余地はありません。 しかしこのような場合であっても、不幸を見いだして悩むということは可能です。 例えば、どうして自分は頭が悪いのかとか、どうして親は頭のいい子に産んでくれなかったのかとか、親がブサイクな顔をしているからブサイクなんだとか、どうしてモテないか、といった関係ない事にも悩みが及ぶのです。 そんなことを悩む間に問題集の一問でも解けばいいと思えるのですが、悩む方が楽なためか、どうしても悩みの方へ向かってしまうのです。 自分の力でどうにもならないことは、明らかに、自分にやれることではないのです。 出来ることは、せいぜい悩む事くらいのものです。 むろん悩んだからといってどうなるものでもありません。 それでも悩む方を選ぶのですから、人間は自分の不幸を悩むのが好きだとしか思えません。 不幸のタネは尽きませんが、かりに何の不幸もなくなったとしたら、悩みはなくなり、人間には努力しか残されていないことになります。 このような事態になったら人間は不幸になるに違いありません。 悩んでばかりいても仕方がないので、以下に解決するヒントを述べておきましょう。 1.転換法 貧乏でお金がないと悩んでいる私が高利の金融屋さんから、お金を借りることを考えてみれば解かり易いでしょう。 これによって私は“お金がない不幸”から見事に解放されて、“恐い取り立てと高い金利”に、悩まされる事になるのであります。 しかしそれも、目にゴミが入ったくらいの事で、気にならなくなるのだから、大したことではないのかも知れません。 ほんの僅かな事で不幸は退散するのです。 ただしこれは、単に別の不幸と交換するだけだ、というところにこの方法の難点があります。 だからこの方法は、どうしても不幸でいたい人、目先の変化が欲しい、という人には有効ですが、不幸から逃れるための方法としては万能ではありません。 たしかに人生の無常を悩む人が、恋人との不和のために悩みを忘れることはあり、それも空腹のために気にならなくなり、空腹も靴に入った小石のために忘れてしまう、といった具合に次々に別の悩みに代わっていき、終いには、およそ悩みとか不幸を感じる余裕のないギリギリの状態に達する、ということはあります。 不幸や悩みには、かなりの余裕が必要なのであって、生きるか死ぬかの極限的状況や歯痛がひどい時に人生の無常を悩んだり、恋人との不仲や、容姿に悩む人はいないのです。 しかしこの方法がいつも使える訳ではないし、ちょうど嫌な彼氏と別れるために、もっと嫌な男と付き合い始めるようなもので、解決になっているかどうか疑わしい。 悩みは、ただ忘れられているだけで消滅したわけではなく、余裕が出来てくれば、以前の悩みが復活するのです。 2.転嫁法 これよりも一般的に使える方法としては、「誰かのせいにする」というポピュラーな方法です。 最も多く見られるのは、身近な人のせいにするというもので、標的には、恋人、親、兄弟、上司、同僚、部下、友人などが選ばれます。 しかし、この場合はその人達との人間関係に、新たな摩擦が生じ、それでまた悩む可能性もあるため、あまり賢明とはいえません。 どうせなら、社会とか政府とか、あるいは本能(浮気の場合など)といった、より抽象的なモノのせいにした方が摩擦が生じなくて良いでしょう。 しかし抽象的な方がよいからといって、特殊相対性理論や複素数のせいで自分は不幸だ、と考えるのは無理があります。 例えそれらのせいにすることが出来る人がいても、他の人から異常だと思われるから注意が必要です。 何かのせいにするなら、人間に影響を及ぼすと一般的に考えられているモノのせいにするのが無難です。 特殊相対性理論などよりも世間に受け入れられ易いものとして、運のせいにする、天候のせいにする、霊のせいにする、などというのがあります。 神、悪魔なども有力な候補と成り得るでしょう。 実際に古代では、たいてい様々な事柄について、責任担当の神様が分野別に決まっているのが普通でした。 海には海の神、収穫は収穫の神、など分担が決まっており、それぞれ責任を転嫁することができたのです。 このような古代人の知恵も今では通用しなくなっており、神様のせいにするのも困難になっています。 現代でも一部では、先祖のせいにする、自分の前世のせいにする、生年月日のせいにする、血液型のせいにする、カーテンの色のせいにする、という方法で納得している人もいます。 このような責任転嫁の方法は健全でないように思われるかも知れませんが、この方法を突き詰めていくと、自然や神など文句の言えない存在に責任を転嫁することで、簡単にあきらめることが出来るかも知れません。 元来原初の宗教とは、人がどうしようもない不幸から逃れる為の方便なのでしょう。 自然のせいにするということは、考えてみれば、不幸を自然的事実として認め、それ以上文句を言わないという事です。 すべてを自然のせいにすることができれば、それこそ老荘思想や仏陀のような無為自然の境地となり、悟りが開けるでしょう。 3.比較法 これは、解消、解決というよりも不幸の軽減に役立つ手段として、他人と比較するという方法です。 例えば「彼女を取られても、命を取られた訳ではない」とか、「彼女がいなくなって、自由になった」とか、「彼女とヤレただけ、ラッキーじゃん」といったものです。 ここで女性向きの例を挙げると「いくら胸が小さくても、○○より大きい!」と思えば、苦しみはいくらかでも軽減されるものです。 ただ、この方法は、自分よりも不幸な状態と比較しているだけだという事に気が付くと、一層みじめな気分に襲われることがあります。 比較を利用したものでも、これとは別の軽減法もあります。 一般に喜怒哀楽というものは自分一人に起きるからひどく大げさに感じられる、という法則があります。 もし宝くじが全員に当たったら、それほど喜びを感じられないでしょう。 (喜びが感じられなくても、また、たとえ苦痛を感じたとしても、私ならその宝くじを絶対に買いますが) つまり、苦しいのは自分だけだと思うから苦しみは増加し、自分だけが不幸だと思うからより不幸になると思われるのです。 そこで、苦痛はどんな人の身にもふりかかることだ、これは当たり前のことだ、と思えばそれだけで軽減されるのです。 だから、楽しいときには自分一人だけの事にするようにすれば、一層楽しくなるはずです。 逆に、自分が苦しいときは他人も巻き添えにするようにすれば、その苦しみは軽減されるはずです。 だが「不幸の巻き添えにする」のは大抵の場合、非常に困難です。 自分の悩みを他人に打ち明けても巻き添えにしたことにはなりません。 他人に打ち明けても、その他人が苦しむわけではなく、たいていは喜ばせる結果しか得られない事があります。 ですから、この方法も原理はしっかりしているものの、実際の適用においてはやや普遍性に欠けるきらいがあります。 4.昇華法 そこで、最終手段を紹介することになるのですが、これは単に不幸を軽減するようなものではなく、一気に解消する強烈な効果を発揮するが、実践は極めて困難な方法です。 それは「笑ってしまえ!」というものであります。 気が付いたかも知れませんが、先に列挙した悩みのタネはどれも、「笑える」という特徴があります。 本ページの冒頭で私の自己紹介を載せたのですが、一部の人には笑いを誘ったかも知れません。 私の不幸な身の上や、ブサイクな容姿などを笑ってしまうことで、私はいくらかでも我が身の不幸を軽減しているのです。 だいたい、最も簡単に笑いのタネになるのは、容姿に関する悩みでしょう。 多くの若い女性の悩みは容姿であるといいます。 容姿なら年配の女性の方が悩んでいてもよさそうですが、人間は理想から大きく外れるよりも、小さく外れていた方が悩むためか、若い方が悩みは大きいらしい。 この笑いをさらに確かなものにする工夫も考えられます。 たとえば、太った人が「私は太っ腹です」と言ったり、「足が短いので私は腰が低い」と言えば、不幸を笑いにすることが出来るでしょう。 (このギャグが受けなくても、一切私の責任ではありません。不幸は一人で背負って下さい!) その他、「くびれた胸」「はちきれそうな腹」「ゆたかなウエスト」「すらりと伸びた胴」「つぶらな鼻」「切れ長の口」「ふくよかな足首」などの表現を使うことが考えられます。 これらを使って、自分でも面白がってしまえばこっちのものです。 こうすれば『他人に笑われた』というより『他人を笑わせた』と思うことが出来るのです。 しかし、真面目な話(私は終始一貫して真面目なのですが)、この方法を実践することは、かなり困難です。 とくに、深刻さの度合いが増すにつれて笑うことが難しくなります。 欧米では、ユーモア精神が高く評価されていますが、(私が観る)映画や(私が読む)小説から判断すると、ピンチに追い込まれたり、死に直面したときに冗談を飛ばせるかどうかが、人間性を評価する有力な基準になっているように思われます。 私の欧米に関する知識は、主として、ハリウッド映画や、冒険小説、ミステリーなどから得たものであるが、たいていの場合、主人公はどんな危機的状況でもユーモアを忘れない人間です。 また実際にあった話として、第二次大戦中、ドイツがイギリスを海上封鎖したとき、イギリスの新聞の見出しには「ヨーロッパ大陸、孤立す」と書かれた、という話を聞いたことがあります。 このようなユーモア精神がある限り、不幸に悩まれることはないでしょう。 以上の方法を試みても、なお悩みが消えない場合は、あきらめていただくしかありません。 不幸は誰にもある。 済んだことはどうしようもないのだ。 ここまで書き進めてきて、私はあまりの恥ずかしさに、このページを破棄しようか、と思って悩んでいます。 どうか私の不幸を救うために、これを読みながら笑って頂きたい。 |